永享(室町時代前期、今から560年ぐらい前)のころ二人の行脚僧が当州に来て力競べをしたところ、一方の僧は大変な力持ちで石を裂いて勝を得た。
この行脚僧は現国士峠を越えてこの地に来た。
当地に法嗣茶屋と呼ばれる茶屋(現貴僧坊詰所)があり、この旅僧は法嗣茶屋に一泊し、片隅に端座して経文を誦していると、夜半頃村人たちが女の死人を担ぎ込み立ち去っていった。
僧は、不信に感じたがこの棺の前に立って大般若経を誦していると、不思議にもその女人は息を吹きかえした。
僧は、この旨を家人に伝えた。
思いがけない喜びに両親はもとより、これを知った村人たちは、この旅僧を崇め貴僧と呼んだ。
この僧は、後に最勝院の開祖となった吾宝禅師であった。
禅師は、最勝院開創二年ほど前にこの地に大久寺を開いていたので、世人はこの禅師を崇め貴んでついに貴僧坊と村に名づけたという。
また他に伝うるに、ある年の大晦日に茶屋の祖母が急死した。
年の瀬に来て葬儀を営み難く、遺族の願いにて三日間堂内に安置したが、正月の三日間、年始の人々が大久寺に行くと、その祖母がたすきがけで茶を出し賀客をもてなした。
三日の晩に至るとその祖母はもとの棺に還り、四日目に葬儀を営んだという。
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