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貴僧坊の秋祭り
貴僧坊水神社
祭神 罔象女命
 貴僧坊は西洞と東洞が合流し、天城湯ケ島や筏場に通ずる要地である。
 伊豆の名刹最勝院の開祖である吾宝禅師がこの地に大久寺を開いたことから貴僧坊の地名が生まれたといわれる。
 貴僧坊水神社は、 寛文一三年(一六七三)に創建された。
境内の地下の熔岩から出る大量の水は、飲料水だけでなく
ワサビや稲つくりの重要な水源となり、この地の生活産業の源をなしている。

 例祭日 一〇月一四日(現在もこの日は守られている)
 例祭日の特徴
社有地にワサビ沢があり、氏子はワサビを栽培してその収益により祭りを盛大に行い神恩に感謝している。
 ▲今から、15年ぐらい前、禰宜さん(4名)の面白い儀式がありました。
現の禰宜さんが、皆の前に座り「1年間ありがとうございました」と挨拶し、目の前のどんぶりになみなみと盛られた酒を飲み干します。
新の禰宜さんも「1年間よろしくお願いします」で飲み干します。
因みにどんぶり4杯注ぐと一升瓶が空になります。
見ている方も大変ですが、やっている方はもっと大変なのは推して計ってください。
長く続いているこの儀式は、その後、どんぶりから小さな金杯に代わりわり今でも続いています。

水神社の湧き水で割った焼酎は最高!

貴僧坊の夏祭り
あたごさん
愛宕堂 本尊 愛宕権現像

(貴僧坊集会所内)

永享年間(一四二九〜一四四〇)輿堤峠(現国士峠)を越えてきた吾宝禅師は、当村山下氏の家に至り、山下氏の草創した一庵に身を寄せて、その庵を大久寺と名づけた。そして二年後に最勝院の開祖として進院した。
村人は、吾宝禅師を崇め村を貴僧坊と名付けたと伝えられる。
後に大久寺は廃寺となり愛宕堂となったが、今は貴僧坊集会所内に祀られている。
 ここの祭壇には三体の石仏が安置され、青面金剛像・地蔵菩薩像・愛宕大権現像がある。
 愛宕像に刻まれている文字は像が古く判読困難であるが、青面金剛像の側面には「享保四年(一七一九)亥六月庚申塔』。また地蔵菩薩像には「平等利益塔」延享四年(一七四七)○十月穀且」とそれぞれ刻まれている。

 八月二三日午后六時より年寄りたちが念仏をあげる。集会場前広場では若い衆主催の露店や、花火大会等が盛大に催される。

例祭日
八月二十三日
新人消防団員の
自己紹介ソング
水神社の水で、流しそうめん

言い伝え

 永享(室町時代前期、今から560年ぐらい前)のころ二人の行脚僧が当州に来て力競べをしたところ、一方の僧は大変な力持ちで石を裂いて勝を得た。
この行脚僧は現国士峠を越えてこの地に来た。

当地に法嗣茶屋と呼ばれる茶屋(現貴僧坊詰所)があり、この旅僧は法嗣茶屋に一泊し、片隅に端座して経文を誦していると、夜半頃村人たちが女の死人を担ぎ込み立ち去っていった。
僧は、不信に感じたがこの棺の前に立って大般若経を誦していると、不思議にもその女人は息を吹きかえした。
僧は、この旨を家人に伝えた。
思いがけない喜びに両親はもとより、これを知った村人たちは、この旅僧を崇め貴僧と呼んだ。
この僧は、後に最勝院の開祖となった吾宝禅師であった。

禅師は、最勝院開創二年ほど前にこの地に大久寺を開いていたので、世人はこの禅師を崇め貴んでついに貴僧坊と村に名づけたという。

 また他に伝うるに、ある年の大晦日に茶屋の祖母が急死した。
年の瀬に来て葬儀を営み難く、遺族の願いにて三日間堂内に安置したが、正月の三日間、年始の人々が大久寺に行くと、その祖母がたすきがけで茶を出し賀客をもてなした。
三日の晩に至るとその祖母はもとの棺に還り、四日目に葬儀を営んだという。